どうも自家焙煎珈琲パイデイアです。「焙きながらするほどでもない話」第34回と相成りました。
最近は、6月から始まる喫茶営業の準備にそれなりに忙しくしています。
ちょっと楽しみ、とかいうレベルではなくなってきています。
毎日のように試作の珈琲を淹れて、もう珈琲はちょっとしばらくいいかな、と思っているくらい飲んでいます。もう珈琲は当分、飲みたくないな。
ただ、朝起きると、自然と珈琲を淹れてしまいます。
習慣とは体のいうことを聞かないものです。
この間、ラジオを聞いていて、私より3つくらい年下の男の子が自炊についての小さな喜びの話をしていました。
ポトフを作るのに、キャベツを買ったら、キャベツが余った。数日後、餃子が食べたくなって、余ったキャベツを測ったら、レシピとピッタリの量だった。それが嬉しかったのだと。
私にはこれのどこが嬉しいのか、いまいち分からなかったのです。
どこが分からなかったのか、少し考えてみると、そもそも私は餃子を作るときにキャベツの量を測ったりしないだろう、と思うのです。
ポトフを作って余ったキャベツは全部、餃子に入れてしまいます。
「レシピにピッタリ」という概念が私にはないのだと思います。
キャベツの量が多いからといって、何も食べられないほど不味いものが出来上がるわけでもなし、そりゃ、キャベツの量が増えた分だけ水分は出て水っぽくなるかもしれない、そう思ったら次回は少し、キャベツの水を抜いておけばいい。私はすぐに結論を出した。きっとこんなこと、冷蔵庫の野菜室を開けたときに思いつくだろう。
そうか、私はつまらないほどに器用なんだな。
これが自画自賛になるほど、私はつまらなくはない。
どうせ、つまらないほどに器用なら、つまらない人間であれば幸せなのに、そこまでつまらなくはない。なんとも中途半端だ。
じゃあ、この器用さを面白い方に活用すればいいのかもしれないが、不器用で面白い人間がこんなにいる世の中で、器用で作った面白いなんて、ほとんど無力のようなものだ。
私は面白い人間に対して、大きな劣等感を持っているのだと思う。
人よりも少し多く本を読み、少し多く映画やドラマや演劇を観て、小手先の知識は少し多めにある。そして、それを記憶しているだけの記憶力も人よりもきっと少し多めにある。
だから、面白く見せることはいくらでもできる。器用だから。ものを記憶しているから。
何度も言うけど、これは自画自賛ではないのです。お願いだから、そうは受けとらないでください。
でも、その器用さのせいで、私は本当には面白くはなれない。
少なくても、私はキャベツを余らす人生が良かった。
不器用のせいで余ったキャベツを面白く話せる方が良かった。
そんなラジオを聴きながら、焙煎の準備をしていたら、焙煎機が壊れた。モーターが回らなくなった。
器用な私はホームセンターで部品を買ってきて、手回しの焙煎機として、新い焙煎機が届くまでの火急のしのぎとした。
器用で少し良かった。
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