どうも自家焙煎珈琲パイデイアです。「焙きながらするほどでもない話」第38回なんだそうでございます。
今週火曜日、6月25日は私が敬愛して止まない(いろんな文章を読んでいただいている方はお気付きかもしれませんが、私は敬愛して止まないものが、結構多い)サザンオールスターズの46回目のデビュー記念日でした。
デビュー46周年、というよりも46回目のデビュー記念日、という方がどことなく、重ねてきたものの重みを感じるようで、ちょっとわざとらしい言い方ですが、こちらの方が好きです。
兎にも角にも9月23日にロッキンへの出演を発表、しかもこれを夏フェスの卒業とする、というので、是が非でも取りたいチケットです。
考えてみれば、メンバーはもうみんな後期高齢者です。年金をもらっていいていい人たちです。そんな人たちがあの灼熱の中、1時間演奏する。恐ろしいことです、これは。
どうして日本のアーティストと政治家は職業寿命がこんなにも長いのでしょうか。
何はともあれ、サザンオールスターズのみなさん、46年、いつもありがとう!
私には過去7人ほど、お付き合いした人がいます。で、その7人の記憶、全部になんとなくサザンのBGMが流れています。
もちろん、色恋沙汰だけじゃありません。
中3の夏、最後のコンクールのあとにみんなで花火をやった公園にも。高1の春、自転車で1時間通学した長い県道にも。高3の冬、受験期を迎えた自習室にも。20歳、朝まで遊び呆けていた地元の安いカラオケにも。
私が思い出すありとあらゆる場所に、サザンオールスターズが流れていて、離れない。
17年、聞き続けるということはこう言うことです。
というか今、何年、サザンを聞いてるか計算してみましたが、17年という年月にびっくりしました。
時間というのは、恐ろしく早く過ぎていくものです。
その一方で、ゆっくりなあまり、過ぎているのか分からないくらいなのが、喫茶営業のノーゲスの時間です。つまり、喫茶営業中のお客様のいない時間です。
ノーゲスとは、ノーゲスト、つまりゲスト(=お客さん)がいない時間です。ゲスと言っても三遊亭圓生じゃありません。むしろ、そんな間違いをした方とお近づきになりたい。
今週は暑すぎたからなのか、持て余す時間が長かったです。
初日に1時間ほど、アイドルタイムのように訪れたノーゲスの時間はバルトークなんか聞いたりして、時々、自分の好きな音楽が聞ける時間もゆっくりでいいよな、なんて思ってましたが、こうも長いとそんな呑気なことも言ってられません。
あ、先に断りますが、これはもう愚痴ですからね。
そりゃね、過去2回がありがたいくらいにお客さんに恵まれたくらいなものです。今週くらいは覚悟しておりましたが、
珈琲淹れても一人。
そんな時間が続くと、なかなか辛くなってきます。
場所代がいくら、看板の生け込み代がいくら、ガソリン代、駐車場代……
積もる出費に、去る売り上げ、手元に残るは領収書。
悲しい都々逸です。
もちろん、一人なら一人でやることは有ります。事務作業したり、次に考えている企画の草案をまとめたり。しかし、なんだか落ち着かないのです。
いつお客様がいらしてもいいように、ネクタイは緩められないし、もちろん、小上がりに寝るわけにもいかない。
なので、作業をするため、タブレットを開いてみるのですが、集中力が保たずで、閉じてしまう。そんなことを繰り返す長い長い時間が時々あります。
ハイデガーはそんなことから「存在と時間」なんてことを考え出したのでしょうか。ベルクソンってもしかして流行らないカフェでバイトしてたのかも。
地球の回転から逆算して生み出されたいわゆる時間、ここでは物理的な時間としますか、と体感で感じる時間、じゃあ心の時間としましょう、は全く噛み合わないことが多々あります。
サザンを聞いてきた17年が、お客さんを待っている今の1時間の14万8920倍(24時間×365日×17年)も長いわけがないのです。
だって、一瞬だったんですから。東京ドームのライブ、ロッキン、福岡のライブ、茅ヶ崎ライブ、その他の参戦したライブは瞬きした瞬間に、終わってました。
しかし、圧倒的に説得力を持っているのは、物理的な時間です。
なぜならば、全員が同じ尺度で測れるからです。
私がサザンを聞いてきた同じ17年間を灼熱の砂漠で過ごしていた人がいたら、いくらお客さんがいないくても、クーラーの効いた店内にいられる1時間は、その人にとって、一瞬でしょう。おそらく、1/14万8920以下の短さだと思います。
心の時間は体感する人によって、流れる時間が違います。これは比べようがないのです。
結局、社会で誰かと誰かが暮らさなくてはならなくなった時に、必要なのは、共有できる尺度です。社会におけるものの大半の価値が、金額という基準で計られるのが一番わかりやすい例です。
しかし、これが黎明期だったり、勃興の最中にあると、この基準があやふやだったりします。
私は、珈琲はそんな最中にあるんじゃないか、と思っています。
珈琲自体は明治時代から飲まれていて、日本に定着した外来文化の代表のようなものですが、しかし、こんなに裾野が広がった時代もないのではないか、そういう意味で、珈琲は黎明期かもしれません。
パイデイアは深煎り深煎り、と盛んに言っておりますが、浅煎り、中煎り、深煎りの厳格な規定はありません。
昨今、どこもかしこも当たり前に看板に掲げてる「スペシャリティコーヒー」も定義はあやふやです。(元々は生産者を追いかけることができる管理体制の整っている豆のことを意味していましたが、今となっては、むしろ管理されていない珈琲がないので、あえて言うなら、スペシャリティーコーヒーでない豆がない、と言えるのですが)
今、珈琲は言ったもの勝ちです。
いろんな珈琲屋が顔色を伺いながら、いろんなことを言っています。時として、真反対のことを言っている同士の人もいます。(こんなようなことはいつも言ってるかもしれませんね)
普遍的な物差しがない、ということは、何で計ってもいい、と言うことなんだと、私なんかは解釈しています。
つまり、私の好きが、パイデイアの珈琲の中心でいい。
こんなに楽しいことはありません。だから、今、私は珈琲を始めたのだろうと思います。
暇すぎると、こんな話になります。誰か、来てください…
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