どうも。自家焙煎珈琲パイデイアの「焙きながらするほどでもない話」第19回でございます。
前回はいよいよ珈琲の「こ」の字も出てこないようなただの散文でございました。
それでも、お読みくださった皆様、ありがとうございます。
いいですね、この何にもならないような無駄な感じ。
生産性があり、経済的で、費用対効果が見込めるもので身の回りが埋まることの息苦しさ。
珈琲好きが高じて、始めたコーヒー屋。
自分で焙いている豆にいっぱいいっぱいにならずに、たまには先達の珈琲をいただきます。
運転が好きでドライブする人も、たまに座る助手席のなんと楽チンで居心地の良いことか。
珈琲も同じで、自分で焙いて淹れるのも一興、人に淹れてもらうのもまた一興。
先日、小田急線江ノ島線沿線で見つけた小さな珈琲屋で深煎りのキリマンをいただきました。
テッカテカに輝く肝の座った深煎りです。
そっちがその気ならこっちも、と気合いも入れて、珈琲も淹れて、いざ。
見た目の漆黒とは打って変わった珈琲の甘いこと甘いこと。本当に甘い。
あーこれだ、これこれ、これです。これがやりたいんだ、私。この甘さを焙きたいんですよ。
私がやろうとしていたことは、確かにあったんだ。深煎りは甘くなるんだ。
もう、ラピュタを見つけたパズーの気持ちです。「あなた、トトロっていうのね」ってメイちゃんのやつです。この深煎りを焼いている店主の方に「ここで働かせてください」って千尋です。
言われてみれば、小さな時代を感じる店構えもどこかジブリのようです。
ってそんなジブリなことはないのですが、それでも、出会ったことがない衝撃の甘い深煎りでした。
もっと自分も精進しなくては、もっともっと珈琲に取り憑かれなくては、と高揚する刹那、すでにこんなに甘い深煎りが存在するのに私が焙く必要があるのだろうか、と漠然とした不安が湧いてくるのです。
私が焙く意味。
なんで私が焙くのか。
すでに存在する物を世の中に発信していこうとするならば、全く同じ物では意味がありません。
私が焙くことの意味がなくてはならないと思うのです。
私が好きな味があるならば、それを買えばいい。
それを広めたいと思うならば、物販業をやればいい。
何も同じものを焙く必要はないのです。それでも、私は焙きたいのだから、そこになんか意味が必要なはずです。
とんでもなく甘い深煎り珈琲を飲みながら、そんなことを考えています。
まあ、まずはそんなことを悩む前に同じくらい甘い珈琲を焙いてごらんなさいよ、って話ではありますけどね。それだって、まだまだですよ。
珈琲が好きゆえに、その大きな存在を見つけると、憧れて追いかけたくなますが、その途中で私が追いかけた先に何があるのか、ふと不毛な疑問を抱き、それがやがて不安に変わるのです。
なんなのでしょう、これは。
--------------------
自家焙煎珈琲パイデイアでは毎週火曜日にNoteも更新しております。
パイデイアの珈琲と一緒に楽しんで頂きたいコンテンツを、誰のためじゃありません、私のために書き留めております。
今週は、敬愛するジャズメンの菊地成孔さのアルバム「南米のエリザベステイラー」について書き留めました。
ぜひ、こちらも合わせてご一読くださいませ。