どうも、自家焙煎珈琲パイデイアです。「焙きながらするほどでもない話」もうね、20回ですって。ま、だから、どうだ、という話ですけどね。
世の中は本当にうるさいね、全く。
SNSを見れば、有る事無い事がわあわあと喚き立てれて書かれているし、ニュースだって同じようなことの焼き増しがただ続くだけ。スマホを開くと、くだらないネットニュースが目に入る機会がますます増えていく。
それから、くだらない短い動画ね。これも本当に目障りだ。見たくもないのに、どんなアプリにも我が物顔で現れる。なんの文脈もない数十秒の動画が溢れかえっている。その瞬間だけの面白おかしさし。
面白さにはいろんな種類がある。もちろん、瞬間の面白さだっていいのだけれど、それだけが溢れかえって、他の面白さが蔑ろにされていくのはどうもつまらない。
私は私の面白いの国が作りたい。それじゃ、まるでスプラッシュマウンテンのうさぎどんだ。
でも、世間のつまらないの中では息が詰まる。
息が出来る場所が欲しい。
珈琲を焙いている時間は、私にとって一つの面白いの時間だ。
毎回毎回、思うように焙けない豆たちに試行錯誤する行為がなんとも面白い。仕事は泥団子のようであればいいと思うのだ。
保育園に預けれていた頃、よく泥団子を作った。この時、大切なのは数ではない、質なのだ。
一つの泥団子にずっとずっと手をかけ続ける。一日中、磨いて、握って、土を足して、夕方になったら下駄箱の奥にしまう。
次の日、登園するとすぐに下駄箱の奥の泥団子にさらなる磨きをかけていく。こっちの土はどうだろうか、もっとこうやって磨いてみようか、思いつくままに泥団子に工夫を凝らす。時間をかければかけるほど、いいものになるとは限らない。どんな工夫が泥団子をよくするかはやってみないとわからない。やってみて、無駄なこともあるし、功を奏すこともある。
泥団子がより良く出来上がったからと言って、なんだというわけではない。
むしろ、出来上がってしまったら、それまで。作るまでが楽しいのであって、完成すると、もう次の泥団子に好奇心が向いてしまう。
あるとき、未完成の泥団子が下駄箱の奥で砂と化していた時はそれはもう悔しくて仕方なかった。先生に怒鳴ったことさえある。
土を固めるだけなら、一瞬で終わるのに、それに何日も何日も時間をかける面白さがある。
切り抜き動画の一瞬の面白さにはない、面白さだと思う。
珈琲もなんだか泥団子に似ている。
飲んでしまえば一瞬の珈琲。それに焙煎だの、抽出だの、工夫も凝らすし時間もかける。
一瞬では面白さの「お」の字もない。「お」の字を書こうと、ペンのキャップを取るために、手をかけようとした時に、爪が伸びているのに気づいて、爪切りどこだっけと、探し始めて、結局、「お」の字を書くことを忘れてしまうくらいに、かけ離れている。
つまらない世の中には、流行りもしない面白さかもしれない。
これが違う種類の面白さを「違う面白さ」と認識するのか、「つまらない」と認識するのか。
後者なら、珈琲の面白さを「つまらない」とされるなんて、それこそ、息苦しい。