自家焙煎珈琲パイデイアの「焙きながらするほどでもない話」第10回です。
お笑い芸人さんの深夜ラジオが大好きな私は一週間で40時間ほどの番組を聞いています。今やラジコというアプリのおかげで、一週間まではさかのぼれることが出来るので深夜ラジオと言っても本当に深夜に聞くことはなくなりました。2時間番組のオールナイトニッポンをカセットテープに録音するために、真夜中2時に目覚ましをセットしていた、なんて話も今は昔。
深夜ラジオの楽しみはなんと言ってもパーソナリティ芸人さんとの距離感です。
ラジオという少し閉鎖的な媒体で聞く、芸人さんの話はテレビで聞く話より距離感が近く、親密な感じがします。
芸人さんの方も「ファンです」というよりも「ラジオ聞いてます」という方が嬉しいようです。
前に仕事でハライチの澤部さんや爆笑問題の田中さんとお会いしたときも、「デブッタンテ(現在のハライチのターンの前番組)の頃から聞いてます」「高校生の頃からカーボーイ聞いてます」というと、やっぱりちょっとだけ距離感を近づけて話をしてくれました。
そんな距離感の深夜ラジオのトークでやっぱりメインになるのは、裏話です。
表のテレビに対して裏のラジオとでも言いましょうか、あの番組の裏話やあのネタの製作秘話、みたいな裏話がラジオの楽しみのメインになります。
あの番組を観ていた視聴者の中でも、この裏話を知っているのはラジオを聞いた「私だけ」という感覚はラジオを聞いている自分を少しだけ特別な存在に錯覚させてくれます。
しかし、そんな錯覚にはある種の弊害をもたらします。
自分はこんなことも知っている、あんな話をしていたのを覚えている、というラジオの楽しみ方が、ある時、自分の楽しみを越えて、マウント取りという他者との比較の尺度として、使われ始めるのです。
にわか、古参という言葉が強調され、自分とパーソナリティー芸人との距離の近さ=自分がどれだけ知っているか、を基準に人と比べ、優位に立とうとし始めるのです。
競争が始まった途端、みんなで面白くおかしくふざけていた空気感から、いかに知っているかをひけらかそうとする、なんだか息苦しい空気に変わります。ラジオを聞くことは面白いのですが、Twitterで見る一部のリスナーのリアクションには一緒にラジオを楽しんだ、という秘密を共有しあった仲間意識よりも「この角度から楽しんでいる俺」をありあり誇示する競争意識と化していきます。
パイデイアを立ち上げて、専用のアカウントを作り、珈琲に携わる方と繋がることで自分のやっていることに方向性が見えてくる一方で、いかに珈琲を知っているか、いかにこの業界に精通しているか、を誇示することを目的とするような投稿もちらほら見られるようになってきました。
私なんぞは焙煎しているなんて言っても、卵も卵、まだ受精もしていないくらいなものですが、そんな私でも、なんだか珈琲業界が先に見た深夜ラジオと同じような一途を辿り始めているような気がして、ならないのです。
珈琲に関しての情報が詳細になりすぎて、純粋にコーヒーを楽しむのに必要な情報か、それ?
焙く人間が知っていればいいだけのことを、飲む人に向けてそんなに語る必要があるのだろうか?
そんなことを悠々と語ってるけど、飲む人に知識の強要として、一種の煽りになりかねないだろうか?
飲む人間の中でこの知識量がマウントの取り合いに転じないだろうか?
そんなことになったら、珈琲を飲むことがどれだけつまらなくなるだろう。
そんなことを心配をしてしまうのです。
もちろん、こんなことは私なぞが心配することでもなく、大きなお世話でしかありません。
1日に50人も読んでいないところで叫んだところで、大きな珈琲界隈にしてみれば、どこ吹く風です。
しかし、焙く人間には焙く人間の、飲む人間の飲む人間の、それぞれの楽しみがあると思うのです。
飲む人間の好きが高じて焙く人間になったからと言って、別にその人がすごいわけでも偉いわけでもありません。しかし、この詳細な知識の横行はそのうち珈琲好きの中で意味のない優劣を生み出し、純粋に珈琲を楽しむことへの弊害になりかねないと思うのです。
私はいつまでもただ、珈琲を楽しみたい。
それはジーパンをどうやって食べるかだけを真夜中にくっちゃべってたあのラジオにバカ笑いしたように、ただ楽しみたいのです。