どうもこんにちは。
自家焙煎珈琲パイデイアの焙きながらするほどでもない話、第6回です。
先日、ショッピングモールのフードコートで冷やしぶっかけうどんを食べました。
冷水で〆たうどんの上に、わかめ、青のり香る天かす、鰹節、刻み海苔、かまぼこ、ど真ん中に神々しい卵黄がトッピングされていました。(食べれないネギはあらかじめ抜いてもらいました。)
拝みたくなるような有難いうどんをどう食べようか考えあぐねた結果、まずご本尊卵黄を崩さないように、わかめとうどんを一口。
次に、天かすのブロックのうどんを天かすと絡めて、一口。間髪入れずに、鰹節ブロックを一口。有無を言わさず、刻み海苔と一口。流石にかまぼことうどんは、一緒に一口は厳しいので、かまぼこだけをひと齧り。
さて、うどんとそれぞれのトッピングのお遍路をぐるりと一周お参りしたところで、真ん中に鎮座するご本尊卵黄にちょっとだけ穴を空けます。
今、ぐるりと回ったトッピングお遍路を黄金に輝くご本尊卵黄ともう一周。
わかめとうどんに卵黄、天かすとうどんともちろん卵黄、鰹節とうどんと間髪いれずに卵黄、刻み海苔とうどんと有無を言わさず卵黄、かまぼこを卵黄に絡めてもう一口。
こうして、トッピングとうどん、トッピングとうどんと卵黄、というすべての組み合わせで、冷やしぶっかけうどんを食べました。
そんな風に食べながら、何を考えていたかと言えば、その時の私の頭の中にあったことは珈琲について、それもブレンドについてでした。
よかった。ここにようやくコーヒーの話をする気になったようです。
さて、冷やしぶっかけうどんから珈琲を連想したからと言って、何も四六時中も珈琲のこと考えてるって意識の高さを顕示したいわけじゃありません。
だいいち、四六時中、何かを考えてるなんていう人はあまり信用に置けません。珈琲好きな人間が珈琲のことだけを考えているがいいとは思わないからです。全く関係ないことを考えている時に、ふと、珈琲に繋がることを思いつくこともあるのです。
この冷やしぶっかけうどんがまさにそうです。
珈琲と全く関係ない冷やしぶっかけうどんに、数種類のトッピングが乗っている時、私がまず考えることは、「せっかくなら全部の組み合わせで食べたい」ということです。
だから本当のことを言うと、この日の冷やしぶっかけうどんは私が最大限満足する食べ方ではないのです。
だって、わかめ、天かす、鰹節、刻み海苔、卵黄と5つのトッピングがある時、1種類づつ、2種類づつ、3種類づつ、4種類づつ、5種類づつと何通りものトッピングの組み合わせがあるじゃないですか、それを全部は試せてないんだもの。せっかくならその全部の組み合わせを食べたいと思うじゃないですか。
この「せっかくなら全部の組み合わせを試したい」と言うのがまさにブレンドコーヒーに対する底知れぬ欲望になるのです。
ブレンド珈琲を構成する要素には豆の種類やその比率などがありますが、その全てを試さずにいるのは勿体無い気がしてしまうのです。
だって、これが美味しい、と思っても試してない比率にもっと美味しいものがあるかもしれないじゃないですか。
天かすと卵黄を絡めて食べるの美味いじゃないの、と思っても、天かすと卵黄と刻み海苔の方がより美味しかもしれない。そう思うと試さない組み合わせがもったいなく思えてきませんか?
ラーメンの薬味、アイスとホイップとべリーソースのかかったチーズケーキ、しゃぶしゃぶの2種類の出汁、どれもその組み合わせが広がるのなら、その全てを試さないと気が済まない。
これがブレンド珈琲の根源じゃないかと、冷やしぶっかけうどんを食べながらそんなことを思いました。
つまり、ブレンド珈琲とは尽きることない煩悩に取り憑かれることの象徴なのではないでしょうか。
お遍路をして、ご本尊を拝み倒した先に待っているのは、煩悩にまれた凡夫であったという話でした。
たかがうどんなんか普通に食え。